チベスナノート

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福岡伸一『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』の個人的まとめ

論理展開

プロローグ

生命はすぐに色褪せるため、本質的にテクノロジーの対象になり得ない。これは「生命とは何か」という根源的な問いに基づいている。

 

第1章

クリックの「意識とはなにか?」という問いは、現在にも続く生物学の難問の一つである。これを考察する前に、少し具体的な問題として、アンガーに由来する「記憶とはなにか?」という話題に触れよう。

この問いの考えうる最も単純な答えは「記憶は『記憶物質』なる分子が司る」というものだろう。しかしながら、生体分子は脳細胞に至るまですべてが代謝している。そのためこのアイデアは棄却されることになる。

記憶は物質的に保存されている訳では無い。つまり、記憶自体は想起した瞬間に作られているに過ぎない。

では、記憶の正体は一体なんだろうか。答えは脳細胞間の繋がり、シナプスである。シナプスを情報伝達物質であるペプチドが通ることで記憶の想起が行われる。明確な記憶とは、よく通るシナプスの経路なのだ。

さて、記憶に関連して「時間感覚とはなにか」についても考えてみよう。大人になるほど1年が短くなるのは誰にでも経験があるだろう。だが、意外なことに人間の体内時計(代謝の速度)は大人の方が遅いのである。つまり、時間感覚は体内時計とは別であるのだ。

これにはバイアス(人間の脳が一定のパターンを誤認する)が深く関わっている。人は見たいものを「見て」しまうのである。バイアスは人間の成長の過程で、ペプチドがよく通るシナプスの経路だけが強化され、使わない経路は刈り取られていく事に起因する。外界との折り合いはこのようにして行われていくのである。

「我々は、私たちを規定する、生物学的制約(=バイアス)から開放されるために学ぶ」のであり、『直感に頼るな』という諫言として理解される。

 

第2章

生物は食べたもの(原子)で体を作っている。化石の骨を調べると、当時の食生活が朧気ながらわかるほどである。ただ、食べたタンパク質はそのまま体内に入る訳では無い。タンパク質の持つ生物情報は、アミノ酸という構造単位にまで分割、意味を持たなくされてから吸収される。このメカニズムを消化という。

さて、生物学的には消化管や子宮などは全て体外にあたる。消化管に沿って分布した神経系は、脳と同様にペプチドでのやり取りをしている。つまり、人間の中心は脳とは言いきれず、消化管の可能性があるのだ。言ってしまえば人間は『管』に過ぎない。

これほどまでに消化管が重要視される理由は明確である。それは、生命活動が平衡のダイナミズムの上に成り立つ「効果」であるからだ。

食べたものは消化されるため、食べたタンパク質がそのまま体の一部に使われることはない。コラーゲンをいくら食しても、体内ではそれはコラーゲンとして使われないのである。

欠けたものをそのまま食べて埋め合わせようとするこの考え方は、生命をミクロな部品から考えている。この生命観からのパラダイムシフトを行うことが我々の課題である。

肝臓は最も盛んにタンパク質を合成している。ここで合成されるタンパク質は消化酵素である。食べたタンパク質が60gとすると、そこに70gほどの消化酵素が混ぜられ、その130gから120g程が吸収される。60gのタンパク質をたべ、10gのタンパク質が排出されたという過程だけをみると、この消化酵素の存在は見えてこない。ここに複雑な生命の平衡のリアリティが見えてくる。

 

第3章

人類は、長い飢餓の時代を超え、飽食の時代を迎えた。ここでは、「どうすれば太らないか」をテーマに生命についてみていくことにしよう。

まず、生命現象は本質的に非線形であり、シグモイドカーブを描いている。

ちびちび食べる事が太りにくくするコツである。脂肪細胞の吸収率を決めるのは、血中ブドウ糖濃度であり、この値は膵臓が計り、インスリンが伝達する。つまり、血中ブドウ糖濃度を上げないようにちびちび食べるべきであり、消化が遅いものを食べることが肝要である。なお、消化の遅さを表す指標にGI値がある。

ただ、脂肪と違って、タンパク質は動的平衡であり体内に貯蔵できない。これより、夕食のみのドカ食いなような偏った食生活は、全く新しい栄養失調の形である「一時的栄養失調(マル・ニュートリション)」を導く。

また、トリプトファンと呼ばれる、必須アミノ酸は体内で一瞬ではあるが毒性を持つ。必須アミノ酸だからといって、トリプトファンを過剰に摂ることは危険である。この例ひとつとっても「過ぎたるは及ばざるが如し」、「生命を単純化する」ことの不合理さが見えてくる。

 

第4章

生命は食べたものから身体を構築する。それは人間も例外では無い。消費者が安い食品を進んで買うと、消費者の元に届くまでのプロセスの可視性が失われてしまう。

他にも、添加物による危険もある。添加物の使用は長い目で見ると平衡に負荷をかけることになるかもしれず、まるで人体実験のようである。

遺伝子組み換えも例外では無い。本来完成している生命の一部分を組みかえ、それを食べることは平衡に負荷をかけることに繋がる。

同様の話に、青いバラの話がある。バラを青くするために、他の青い花を咲かせる植物から青色の色素を出す酵素を入れれば良いのかと言うと、実はそうでは無い。青以外の色素を排除することや、青の色素を阻害する酵素の妨害など、するべきことは多岐にわたる。生命を部分で考えることの難しさがここにある。

部品を単純に組みあわせても生物にはならない。大切なのは時間というファクターである。部品間をやり取りされる情報と不可逆性から得られる効果こそが生命である。

 

第5章

生命を構成するあるタンパク質の役割を把握するために、そのタンパク質に対応するDNAを抜き取り、タンパク質を除去したノックアウト・マウスを作り出したい。この技術の理解には、分化についての知識が必要である。

分化は「空気を読んで行われる」。胚の段階では各細胞はどの器官の細胞になるのか決められていない。周囲の細胞との兼ね合いで自身がなんの細胞になるかを決定していくのだ。そこで、胚を分割することで周囲の細胞との関係を絶った細胞(ES細胞)を作る。これはあたかも分化の時計を止めることに対応する。

なお、ES細胞と同様に未分化状態に戻ってしまい、そのまま増えようとする細胞ががん細胞である。

さて、このES細胞に対して、特定タンパク質に対応するDNAの除去を行い、さらに同様の操作を施したラット同士でキメラを作ることで全身でそのタンパク質がひとつもない生物ができる。

この技術を用いて膵臓のGP2細胞という細胞をノックアウトしたマウスを観察すると、不思議なことに異常が見られなかった。これは生物にその細胞が不足してもバックアップするシステムが構築されていることを意味する。このような生命の持つ柔らかさ、可変性、全体としてバランスを保つ機能こそ動的平衡のなせる技である。

 

第6章

病気をもたらすものは多種多様である。脚気のようなビタミンの欠乏や病原菌によるもの、ウィルスによるものがある。これらについて学ぶことにする。

菌は基本的に種を超えて伝染らない、これを種の壁という。また、種の壁を超えて生物は生殖できない。なぜなら細胞の作りが異なり、生殖細胞が結びつかないからである。これは病原菌でも同様の理由である。種の壁を超えると宿主の細胞と適合できないのである。

人類は菌に対して抗生物質で対抗した。一方菌は進化し、徐々に抗生物質が効かないものが現れた。そしてやがて種の壁を越え、自身の構造を次々に変えていくウィルスが誕生した。人類はウィルスへの対策としてタミフルやワクチンを開発したが、近年になってセントラルドグマを破壊した病気である狂牛病が見つかった。

 

第7章

細胞内部にはエネルギーを作り出すミトコンドリアという部分が存在している。実は、このミトコンドリアは細胞内共生体であり、別の生物であるという仮説が主流である。

葉緑体も同様に共生体である。

ミトコンドリアは交配をしないため、母系のミトコンドリアのみが継承される。これをたどっていくと16万年前のアフリカにミトコンドリア・イブと呼ばれる我々人類の共通の祖先がいたことが示唆される。

 

第8章

かつて世界を風靡した生命観に、デカルトの「機械論」がある。機械論者はカルティジアンと呼ばれ、生物を力学的パーツの集合体と捉えていた。

しかしながら、生物とはそんなに単純なものでは無い。生物とは、可変的であり、サスティナブルである動的平衡なのだ。絶え間ないダイナミズムがこれを可能にしている。生物は流れそのものであり、その効果である。

遺伝子組み換え技術、ES細胞のメカニズムの探求、クローン羊ドリー、臓器移植の失敗は機械論的な生命観が誤っていることを示す。

また、動物の意識や心にも目を向けるべきだ。自然界は人間に聞こえないオクターブでやり取りする動物たちの言葉で満ちている。

エントロピー増大則に基づくと、時は戻らないし、形あるものはいつか壊れる。生命は、これに先回りして自らを壊し再構築するダイナミズムに身を置くことで自身を保っている。そしていつかエントロピーの増大に追い抜かれ、死ぬ。ただ、生命は次の世代にバトンを渡す。そのようにしてエントロピーと共存してきた。そう考えると、生物とは本質的に「利他的」なのだ。

動的平衡の生命観においては、環境も生命に繋がる流れのひとつである。非線形で、複雑な「生命」を理解する上で大切なのは、持続する流れの理解であり、それは渦巻きという形で自然界に沢山現れる。

 

感想

個人的にはあまり読まない生物系の本でした。

第1章~第7章では一見お互い関係がなさそうな話題が展開されますが、その裏では常にひとつの主張が貫き、そしてそれらのエピソードは第8章で統一されます。主張は「生命は動的平衡が作る効果」である、というものです。

生命は本質的に部品の集合と考えることが出来ない、単純化への警鐘が印象的でした。出来事の原因を帰納し、近似により観測範囲を制限し、物事を捉えようとする物理の考え方とは大きく異なります。

本書にもあるとおり、生命現象は複雑系特有の現象であり、その魅力と難しさを実感しますね。