文学の話をしよう
皆さんは自然主義文学って聞いた事ありますか?
あ、西欧のでは無く日本の方です。
藤村や国木田独歩といったロマン主義の詩人たちは、自然主義の小説家に転ずるにあたってロマン主義からの脱却を目指し、花袋は、『蒲団』に見られる「露骨なる描写」により、自分の作品を貫く論理を明らかにしようとした。また、「早稲田文学」を本拠に評論活動を行った島村抱月や長谷川天渓も、自然主義文学の可能性を広げようとした。花袋も『一兵卒』のような作品では、客観描写による小説のふくらみを試みてはいた。また、徳田秋声も、『あらくれ』のような女性の一代記を中心に、大河ロマンを書こうとしていた。このほか、正宗白鳥、近松秋江、岩野泡鳴、真山青果、小栗風葉らが活躍した。
しかし、『蒲団』の衝撃は大きく、これによって自然主義とは現実を赤裸々に描くものと解釈され、ゾラの小説に見られた客観性や構成力は失われ、変質してしまった。近松秋江の作品が、みずからの愛欲の世界を鋭く描いたことが、そうした傾向に拍車をかけた。その結果、小説の内容は事実そのままが理想であるという認識が徐々に浸透していった。その流れはもっぱら作家の身の回りや体験を描く私小説に「矮小化」されたとされる。
何言ってるかわかりませんね。
ちょっと分かりやすく翻訳しましょ。
浪漫主義
大昔、日本文学には「ロマン主義」が主流を占めていました。これは「俺は日本をこうしたいんや!!!」っていう主張が込められている文学だったんですね。例えば自由民権運動だったり、封建制度からの解放だったり。しかも、やはりちょっとロマンチストなんですよね。少女漫画的な恋愛だったり、幻想的な情景描写だったり。
一方、「ちょっと待てや!もっとリアル志向でいこうや!それこそ自然やろ!」って試みをしたおじさんが1人いました。それが田山花袋です。彼は著作「蒲団」で自身を主人公として、師匠でありながら女弟子に発情し、その弟子が出ていったあと、弟子が使っていた布団に入るというの衝撃作を書きました。
いい話ですよね?そう思いません?
…はい、キモイですよね。
でも、当時の文学者たちは「これは面白い!!そうだ!リアルはもっとキモイんだよなぁ!?」とこんな感じの小説を書きまくりました。これが今となっては「自然主義」と呼ばれる運動ですね。
つまり、自然主義文学とは「自分自身のキモイ部分を包み隠さず見せるという自己暴露本達」のことですね。
(ちなみに、自然主義の後にはやっぱしこれキモイだろって夏目漱石らがアンチ自然主義の流れを作ってくって面白エピソードもあります。)
Twitterは自然主義文学や!
一方、Twitterの特徴を見てみましょう
- 自分のリアルを見せる
- 自虐的なネタが多い
- 自分の欲が明らかになる
似てません?構造的に自然主義に。
「あー、絶起して鬱」
「やば!!バ先の女の子可愛すぎ!!」
「待って‼️アタシネコになりたすぎるんですケド‼️」
これは興味のベクトルが基本自分に向いていることに起因すると考えられます。(要考察)
つまり、Twitterは文学でありキモイ!
…ん?ブログはどうだって?